レフティやすおの作文工房 -32ページ目

左利きアンケートのお知らせ―第21回左/右利きにあこがれたことがありますか

早いもので今年も十月になりました。泣いても笑ってもラスト三ヶ月。もうひとふん張りがんばりましょう!

さて、『レフティやすおの左組通信』恒例の<左利きプチ・アンケート>の更新のお知らせです。


*<左利きプチ・アンケート>第21回左/右利きにあこがれたことがありますか *

スポーツ選手の活躍を見て、左利きはカッコイイとあこがれる人がいます。
また、右脳左脳を鍛えるといったドリルが流行ってみたり、身体の両側を均等に使って左の脳も右の脳も活性化させようという考えがあります。


一方、現実は右利きが多数を占める右利き優位な社会です。左利きでは何かと不便、生活の便宜を考えれば右利きが有利だ、とできることならば右利きに変えたいと考える場合もあります。


右利きの方は左利きに、左利きの方は右利きに、それぞれ変えたい、左/右利きでかっこよく振舞いたいとあこがれたことがありますか。
また実際に左/右利きになろうと、左/右手(足など)使いに挑戦したことがありますか。


自らの意思で現在挑戦中の方は、1または5の「ある―ある」の方で投票してください。
左利きの方で右手使いへの変更を指導された(矯正を受けた)方は、7「ない―ある」で投票してください。
また、病気やケガなどで利き手が不自由になり、便宜的な手段として非利き手を使っている方は「ない―ある」が適当ではないかと考えます。


*投票者の利き手別で選択肢を用意しています。ご自身でご自分の利き手を右もしくは左と、どちらか判断した上で投票してください。(どちらかの手が不自由等で必ずしも利き手を使っていない人は、実際に使っている手の方で投票にご参加ください。)


*一言言わせて、という方は投票後に表示されます一番下の「ご意見ボード」をご利用ください。もっと言わせて、という方は掲示板もご利用ください。貴方のご意見ご感想をお聞かせください。


1 (右利きの人)あこがれたことがあるし、実際に挑戦したことがある
2 ( 〃 )あこがれたことはあるが、実際に挑戦したことはない
3 ( 〃 )あこがれはないが、実際に挑戦したことがある
4 ( 〃 )あこがれたこともないし、実際に挑戦したこともない
5 (左利きの人)あこがれたことがあるし、実際に挑戦したことがある
6 ( 〃 )あこがれたことはあるが、実際に挑戦したことはない
7 ( 〃 )あこがれはないが、実際に挑戦したことがある
8 ( 〃 )あこがれたこともないし、実際に挑戦したこともない

※お手数をおかけしますが、投票は『レフティやすおの左組通信』 の表紙アンケート欄よりお願いいたします。

結果だけをみる


※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」 に転載して、gooブログ・テーマサロン◆左利き同盟◆ に参加しています。また、アメブロ版「レフティやすおの作文工房」、ヤプログ版「「レフティやすおの本屋」店長日記」 にも転載しています。

お知らせ―左利きアンケート第20回利き手調査1回目―側性係数を調べてみよう

“左手と左利きを考える”ホームページ「左組通信」恒例の<左利きプチ・アンケート>の更新のお知らせです。

今回は記念すべき20回目と言うことで、利き手調査を実施します。利き手調査といっても研究者により微妙に項目が異なっています。機会を見て何通りかの調査票を紹介してみようと考えています。今回はその一回目ということにします。

* <左利きプチ・アンケート>第20回利き手調査1回目―側性係数を調べてみよう*

一口に「左利き」と言っても、実はどう定義するかは非常にむずかしいものだそうです。

辞書を引いてみるとだいたい、右手より左手が得意なこと、またその人を指すといった解釈が出ています。

では、具体的にどんなことができれば得意と言えるのでしょうか。

また、科学者はどういう人を左利きと定義しているのでしょうか。

前原勝矢著『右利き・左利きの科学』(講談社ブルーバックス 1989年刊)で紹介されている側性係数(LQ)を調べて、あなたの利き手を確認してみましょう。

この本によりますと、利き手は右または左と二分されるものではなく、右に近い両手利き、左に近い両手利きというように、右手利きと左手利きは連続しているものであり、「便宜上側性係数(LQ)マイナス30以下」を「左利き」としています。

側性係数(LQ)とは、利き手調査票にある十項目の動作において、実際に使うのが右・左・両方のいずれであるかを答え、それを計算式によって数値化したものをいいます。


・<利き手調査票>―いつも使う手はどちらですか、右手か左手のどちらかに○印を記入して下さい。右手と左手をほとんど同じように使う場合には“両手”に○印を記入して下さい。


1 文字を書く 

2 ハシをつかう 

3 絵をかく

4 ボールを投げる

5 ハサミをつかう

6 歯ブラシをつかう

7 スプーンをつかう

8 短いホーキをつかう

9 マッチをする

10 ビンのフタをひねる


・側性係数を求める式 LQ=100×(右-左)÷(右+左+両手) よって、すべての動作を右でする人は、LQ=プラス100。逆にすべてを左でする人はLQ=マイナス100、となります。


14~15歳男性の調査結果によると、すべての動作を右手で行う人(典型的な右利き)がもっとも多く、全体の49%で、逆にすべてを左手で行う人は約5%となっています。その間に、次に多いLQ値がプラス90~81の人がいて、以下漸減して反対極に(典型的な左手利きに当たる)若干の盛り上がりがあるという構図です。


では、あなたの側性係数はいくらでしょうか。以下の中で当てはまる番号に投票してください。


*今回は利き手調査のため、利き手別投票ではありません。(手の不自由な方は、それぞれの判断で考慮の上、投票に参加不参加を決定してください。)

*一言言わせて、という方は投票後に表示されます一番下の「ご意見ボード」をご利用ください。もっと言わせて、という方は掲示板もご利用ください。貴方のご意見ご感想をお聞かせください。

1 90以上~100

2 70以上

3 50以上

4 0以上

5 0

6 0以下

7 -30以下

8 -70以下

9 -90以下~-100


※お手数をおかけしますが、投票は『レフティやすおの左組通信』 の表紙アンケート欄よりお願いいたします。


このアンケートの結果を見る


※本稿は、ココログ版「レフティやすおのお茶でっせ」 より転載して、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」 、およびアメブロ版「レフティやすおの作文工房」 、ヤプログ版 「「レフティやすおの本屋」店長日記」 に掲載しています。

読書感想文の書き方―レフティやすおのアドバイス

作文の季節である。

いい悪いは別にして、夏休みの宿題として読書感想文を提出しなければならないわけだ。

読書そのものは大切なことで、ぜひ習慣として身に付けて欲しいと願っている。


ただ、そのためにはこの学校における宿題としての読書感想文を乗り切らねばならない。

これがネックとなって、読書嫌いになる子もいるようだ。

これはなんとしても避けねばならない。

元本屋の店員さんだった本好きの私としては、なんとしてもこの危険は避けねばならないと心から思っている。


そこで、簡単なアドバイスをしたい。

以前、「読書感想文を書く」 という記事も書いたのだが、ここで再び取り上げてみたい。


* 本選び―1―挿絵や地図や図表など字以外のものが入っている本を! *

まずは、本を読むのが先決。

ところが本を読む習慣のない人(あるいは子)にとっては、これはけっこうつらいものだ。

映画やテレビはとにかく向こうから何か働きかけてくれる。だが、本は待っていても向こうからは語りかけてくることは少ない。

なくはない。


たとえば、挿絵(さしえ)がある。これは目に飛び込んでくる。

こういう刺激を与えてくれる要素を含んだものをまず選んでみる


J・ウェブスターの少女ものの名作『あしながおじさん』には、著者自筆の楽しい挿絵がついている。決してうまいわけではないが、それがかえって女子大生の主人公の手紙に添えられたイラストらしく、小説の真実味を出している。
この挿絵、今風に言えばイラストだが、これを見ているだけできっと愉快な小説だろうという予感がする。読んでみようと思わせる。


私の経験をもうひとつ示せば、ヴェルヌの『地底旅行』がある。私が読んだ本には挿絵がついていて、そこには子供が好きな恐竜の姿が描かれていた。また、巨大なきのこの“森”の間を歩く人々のイラストもあり、少年の心を大いに刺激したものである。

ポーの「黄金虫」には、暗号が出てくる。そういえば『地底旅行』にも出てくる。暗号表を作ったりする。こういうものも少年は大好きだ。


* 本選び―2―本人の気の向くものをとことん選ぶ *

子供さんに読ませる本を選ぶときは子供に選ばせるのが原則だ!

何時間かかってもよい、本人が納得するまで本を選ばせる。

そうして自分で選んだ本は納得しているから、読もうという気になっているものである。

読書で大事なことは、この気持ちだ! 読もうと言う気持ち―意欲である。


おとなだってそうだろう。読む気の起こらない本は読めないものである。

興味のないことは手を出す気にならない。

だが、好きなことならほっとけない!

子供も同じ、いや、子供はもっと正直だ。


これは、読書だけではない。何事においても、一番大切なことは本人の気持ちである

本人さえその気になっていれば、やる気になれば、何事もそれだけで半分できたのと同じだ。

あとの半分はそれからの努力しだいである。

そして、才能と運に恵まれさせしたら、世界一にだってなれるというものだ。


本を選べない場合もある。

学校の指定があったり、一定の書目の中から選ぶような、課題図書を読む場合。

実はこれが一番問題なのだが、おとなの読ませたい本と子供の読みたい本が一致することは少ない。

ではどうするか。

ますおとなが読んでみる、読んでみせる。

親が読んでいれば、子供は自然にその本に興味を持つものだ。

なんなんだろう? 自然と寄って来る。

子供をその気にさせるのである。そこまで待つ必要がある。

おとなも根気がいる。(うん、大変だ!)


* 本はまず気に入ったところから読む *

何も本というものは始めから、一ページ目から読まなくてもよいのだ

これが大事なポイントである。

つい本というものは最初のページから一ページ一ページとページをめくって読み進んでゆくものと思い込みがちだ。

これがまちがい。

まあ、ちゃんと本を読む習慣のできている人は、そういう読み方もできる。

しかし、そうでない人の場合は、まず、本をぺらぺらとめくってみる。そして、何か気になる部分があればそこを読む。

元々本の読み方というものはそういうものなのである。

まずは気に入ったところから読む。そして最終的に全部読む通す。

本好きが本を選ぶときだってそういうものだろう?

書名および表紙のイメージや、裏表紙やカバーの折り返しなどの紹介文や、目次を見ながら気になる部分をペラペラのぞいてみて、これは自分の興味の持てそうなものだと判断したら読み始める。

それでいいのだ!(小説本はまた違うところがあるけれど、ネ。)


先にあげた挿絵付の本なら、気になる挿絵の部分の前後を読んでみる。

それで興味がわけば、その前なり、後ろなりを読み進めばよい。

(エッ、気になる所がなかったら? ウーン、その時は本を替えてみよう。気になる本が見つかるまで何度でも、ネ。)


* 感想文は全部読み終わらなくても書き始めてよい *

たとえ部分であっても、自分で読んでおもしろければ、それについて人に話したくなるであろう。

それが人情というものである。

その気持ちを感想文にぶつければいい。


思ったときにすぐに書く

感想文を書くのは、全部読んでからでなくてもよいのだ!


最初の印象はこうです。
少し読んだところで、こうなりました。
こうなるかなと予想しました。でも、こうこうでした。

―などなど、と。


途中でもよいから、自分で読んで気に入ったところを書き出してみる

正確な引用でなくても、あらすじでもなんでもいい。

こうなってこうなってこうしたところが気になったとか…。


で、そうして気に入った部分を書き出してみて、その上で、ちょっと考えてみる。ほんのちょっとだけ。

何で気にいったのか?

どこのどの部分がどうよかったのか?

今までにそんな経験があったのか?

自分ならどうするだろうか?

―などなど。


* 自分の言葉で自分の表現を *

むずかしく考えなくてもいいから、気になったことを自分の中で考えてみる。

人がどう思うかとか、人の目にどう映るかなど、一切気にせずに。

そして、自分の言葉で書いてみる

たどたどしくても、紋切り型でも、とにかく自分の中から出てくるもので綴ってみる。

それがその読書を自分のものにするということである。


*

読書とは、自分の感覚を試すこと。本による刺激をどう受け止め、どう反応するかを自分の中に見つける行為である。

読書感想文を通して、感動する心を育て表現する力を養ってほしい、と心から願っている。

私の漢字遣いの方針―高島俊男「漢字と日本人」から

最近漢字に興味を持って漢字について書いた本を図書館であれこれ探して読み始めている。
これもその一冊である。


『漢字と日本人』高島俊男・著 文藝春秋 文春新書198(平成13年10月刊)


* 漢字遣いのよりどころは * 
漢字に興味を持つようになったのは、文章を書く者としては当然かもしれないが、他にもいくつか理由がある。


一番直近の理由は、漢字は右手で書くものだといって、左利きでも右手で書くべきと考える人が少なくないこと。いや、それは違う。漢字はそもそもの始めから右手で書くように作られたものではないはずで、右手で書くように長い歴史の間に改良されたものだろう。その点を調べてみようというものであった。
もうひとつの理由は、『論語』を読むようになり、漢字には一字一字に意味があると知ったこと。さらにその漢字の成り立ちを知ると字の意味もわかりやすいと感じたことにある。


この本を手に取った理由は、日本語表現における漢字の役割をこの際じっくりと考えて見たいと思ったからである。
最近私は、先に言った理由から漢字をできるだけ活かした日本語表現をしてみたいと考えるようになった。


漢字は一字が一語、ひとつの言葉である。言葉を換えれば、ひとつの世界を持っているといえる。
表意文字(本書の著者高島氏によれば、より正確には表語文字)であり、すなわち、目で見てすぐに意味がわかる、象形文字のひとつである。
これは現在一般に使われている他の言語にはまず見られないもので、視覚的な表現である。
反面、英語のようにアルファベット26文字さえ覚えれば、一通りは読み書きが可能になるような言語ではなく、多くの漢字を覚えなければ簡単な文章も綴れない、不便な言語でもある。


ところが日本語の場合は、かなの発明により、漢字が書けなくてもある程度の読み書きが可能になる。
ただ、漢字が使えないとかなり幼稚な表現になったり、見た目にも読みづらいものになる。


では、その辺の事情がどうなっているのか、という興味があったのである。
また、漢字遣いのよりどころとなるものは、なんであろうか
それを求めて本書を読むに至ったのである。


* 高島俊男「漢字と日本人」 *
さて、この本である。
本来日本語は、漢字をつかう中国語(これも著者によれば、より正確に言って漢語)とはまったく異なる系列の言葉であった。ところが、文字を持たぬ日本語に記録用の文字として漢字が導入されたことで、色々な問題が起きてきたというのである。
なるほど、そういうものかもしれない。本来身に合わぬものをお仕着せとして着せられたのが、不幸の始まりとも言えるのである。


また、明治以降、西洋の文物思想を取り入れるべく、多くの和製漢語が作られたとき、耳で聞いただけではわかりにくい同音異義の言葉が増え、日本語を複雑にする原因になってしまった、と言えるそうである。


さらに具合が悪いことに、明治以降の漢字を捨てる思想が第二次大戦後の国語改革で第一歩を踏み出してしまい、現代かな遣いと当用漢字(現常用漢字)の施行によって、過去との通路を分断することになってしまったと言う。


この過去の文化との断絶は痛切に感じる。私自身古典の類を読まなかったのも、かな遣いの違いと字体の違いから来る、字および文章が読めないと言うことに尽きるのであった。


最終的に、この本で著者は、日本語はこれでやってきたのであるから、しっくりといかぬことがあってもこれからも漢字を使ってゆくしかないということ、もうひとつは、過去の日本との通路を絶つようなことはしてはいけない、というのである。

正論であろう。


で、著者の漢字遣いの方針は、和語(本来の日本語、やまとことば―漢字の訓読みがそれに当たる)はあて字を使わず、なるべくかなで書く、漢字は漢語(耳で聞いただけでは意味がわからない、漢字の意味に頼っている言葉、音読みの言葉)のために使い、使用の制限はしない、ということのようである。


* ひらがな書きはやさしいか *
ただ、この本はわかりやすく書かれているのだが、先の方針に従って書かれているため、ひらがなが多く読みづらい部分がある。
わかりやすい本が読みやすい本であるとは限らないと言う、ちょっと矛盾したものを感じるのである。


ウーン、やっぱり文章を綴るのは難しいと言うことか。


子供向けの本でもひらがなが多すぎて読みにくいものがある。どこに言葉の区切りがあるのかわからず、みな平板に見えて読む気がなくなるときもあるくらいである。
これはひらがな書き中心の文章のむずかしいところで、適当に漢字やカタカナを入れて、引き締めるほうが読みやすいものである。


* 私の漢字遣いの方針 *
私は、この本で著者が書いている、「かなの多い文章を書くと人にバカにされるんじゃなかろうかと不安を感ずる」、あるいは「漢字をいっぱいつかった文章を書くと人が一目おいてくれるんじゃないかというあさはかな虚栄」に満ちた「無知な、無教養」な書き手なの一人なのだが、もうひとつ納得の行かないところがある。


というのは、この人の漢字遣いなのだが、和語は基本的にかな書きと言いながら、けっこう漢字を使っていたりする。
「やめる」を「止める」と書くのは、「やめる」か「とめる」かどっちかわからないのでやめるのがよいという。これは理解できます。またやさしい漢字の場合や、意を頼っているものは漢字で書いてもよいとしている。これも理解できます。


で、そういうふうに言い始めると、私のような「無知無教養」なバカには線引きがいよいよ難しくなるのである。


そこで、私の方針としては、できる範囲で一目でわかるように漢字を活かした文章を書くただし過度な当て字はしない音読する際に判断に困るような和語の漢字はなるべく使わないやむを得ず使う場合は煩雑になっても振り仮名をつけるか読みがなをカッコで入れる、そのため、漢字辞典をそばに置いて一字一字手抜きしないで字の意味を確認して使うように心がける、というものである。


これで少しは読みやすく意味の明確な文章を書く、漢字遣いの方針が定まったようである。


お知らせ-左利きアンケート第19回(国際)左利きの日を知っていますか

『レフティやすおの左組通信』表紙で8月7日より実施します、左利きプチ・アンケートの第19回(国際)左利きの日を知っていますか のお知らせです。


<左利きプチ・アンケート>第19回(国際)左利きの日を知っていますか


「8月13日」は国際左利きの日INTERNATIONAL LEFT-HANDERS DAYとして、1993年から毎年、イギリスやアメリカでは現地の左利きの会がイベントを実施しています。


※「左組通信」の表紙で、イギリスの左利きの会THE LEFT-HANDERS CLUBのINTERNATIONAL LEFT-HANDERS DAYのサイトへのリンクを貼りお知らせしています。

また、わが「左組通信」でも何かできたらいいなぁということで、今年は、「あなたの左利きの願い事を教えて!―INTERNATIONAL LEFT-HANDERS DAYに向けて」という企画を実施しています。

<左利きの願い事―左組掲示板>を用意していますので、あなたの左利きにまつわる願い事をお聞かせください。


また日本では、数年前に「レフト(0・2・10)」の語呂合わせで、「2月10日」を日本版左利きの日として、祝おうという動きがありました。(残念ながらここ一、二年は、一部の有志の皆様だけがお祝いされているようで、大きな動きはない模様です。)


あなたは、この「8月13日は左利きの日」をご存知でしたか。

以下の選択肢から一番ふさわしいと思うものをひとつ選んで投票してください。

(知っていて、かつ実際に参加したことがあるという方は、1または5に投票してください。)


*投票者の利き手別で選択肢を用意しています。ご自身でご自分の利き手を右もしくは左と、どちらか判断した上で投票してください。(どちらかの手が不自由等で必ずしも利き手を使っていない人は、実際に使っている手の方で投票にご参加ください。)


*一言言わせて、という方は投票後に表示されます一番下の「ご意見ボード」をご利用ください。もっと言わせて、という方は掲示板もご利用ください。貴方のご意見ご感想をお聞かせください。


1 (右利きの人)知っていた(参加したことがある)

2 ( 〃 )知っていた(数年以上前から)

3 ( 〃 )知っていた(最近、数年以内)

4 ( 〃 )知らなかった

5 (左利きの人)知っていた(参加したことがある)

6 ( 〃 )知っていた(数年以上前から)

7 ( 〃 )知っていた(最近、数年以内)

8 ( 〃 )知らなかった


※お手数をおかけしますが、投票は『レフティやすおの左組通信』 の表紙アンケート欄よりお願いいたします。

このアンケートの結果を見る



昨年の<国際左利きの日>の記事:

●2004.08.12明日8月13日は「左利きの日」

●2004.08.13きょう8月13日はINTERNATIONAL LEFTHANDERS DAY 「左利きの日」

・ホームページの関連ページ―レフティーズ・ライフLL再録5 「新たなる希望!」


「左組通信」左利きの日の企画―左利きの願い事:

・2005.07.26あなたの左利きの願い事を教えて! お茶でっせ版新生活版

<左利きの願い事―左組掲示板>


※本稿は、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」 に転載して、gooブログ・テーマサロン◆左利き同盟◆ に参加しています。

また、アメブロ版「レフティやすおの作文工房」、ヤプログ版「「レフティやすおの本屋」店長日記」 にも転載しています。

本・書評・文学ジャンルへの変更のお知らせ

ジャンルを変更しました。

一月四日の開設以来「日記・blog」ジャンルでやってきましたが、色々思案の末、今月より「本・書評・文学」にジャンル変更いたします。


色々と文章を書くことを話題にしてきましたので、必ずしも当たらずとも遠からずであろうと思います。

従来のように「本・書評」ジャンルでは、はずれるところがありましたが、「文」という文字が入っているので、こちらでお世話になろうと思いました。


他のブログやホームページの更新の邪魔にならぬように、週一回程度の更新を目標にしています。

これからもよろしくお願いいたします。


今までのブログテーマ一覧

お知らせ-左利きアンケート第18回コンビニで左手・左利き用ハサミなど左利き用品は買えるか

『レフティやすおの左組通信』表紙で七月十日より実施します、左利きプチ・アンケートの第十八回コンビニで左手・左利き用ハサミなど左利き用品は買えるか のお知らせです。


<左利きプチ・アンケート>第18回 コンビニで左手・左利き用ハサミなど左利き用品は買えるか


コンビニといえば、いまやどこにでもある街の何でも屋さんとなっています。ちょっとしたものなら何でも置いている、あると便利なお店です。

商店街でも空き店舗が出たと思ったら、百円ショップかコンビニになっていることがあります。


さて、そんな便利なお店ですが、コンビニでは左手・左利き用品が買えるでしょうか。

たとえば、左利き用品の中でも最もポピュラーな商品と言えるハサミなどはどうでしょうか。

あるいは、左手・左利き用の専用品は無理でも、右でも左でも使えるタイプの両用可能な共用品―右端からの目盛がついた定規や左右に芽取りのついた皮むきなど、左利きにも対応したもの―なら、買えるかも知れません。

(ここでいう共用品とは、スプーンや箸など元々左右対称形の品物は含みません。あくまで、左利きにも対応した商品と明確に判断できるものに限ります。)


こんな身近にあって二十四時間開いている、便利この上ないお店コンビニに左手・左利き用品が置いてあるとうれしいですね。そうなると、いよいよ左利きも世間から完全に認知されたと言ってもいいのではないでしょうか。


貴方はコンビニで左手・左利き用品―たとえば左手・左利き用ハサミ―を買えると思いますか。

以下の中から最もふさわしいと思うものに投票してください。

(ハサミとは限らなくても、何か買えるものがあるのでは、という方も、1もしくは5を。)


*投票者の利き手別で選択肢を用意しています。ご自身でご自分の利き手を右もしくは左と、どちらか判断した上で投票してください。(どちらかの手が不自由等で必ずしも利き手を使っていない人は、実際に使っている手の方で投票にご参加ください。)


*一言言わせて、という方は投票後に表示されます一番下の「ご意見ボード」をご利用ください。もっと言わせて、という方は掲示板もご利用ください。貴方のご意見ご感想をお聞かせください。


1 (右利きの人)どこでも(何かひとつぐらいは)買える

2 ( 〃 )買える店もある

3 ( 〃 )左右両用の共用品なら買える

4 ( 〃 )買えない

5 (左利きの人)どこでも(何かひとつぐらいは)買える

6 ( 〃 )買える店もある

7 ( 〃 )左右両用の共用品なら買える

8 ( 〃 )買えない


※お手数をおかけしますが、投票は『レフティやすおの左組通信』 の表紙アンケート欄よりお願いいたします。

このアンケートの結果をみる

過去の全アンケートを新規に投票、コメントできるようにしました。
新たな投票、コメントをご希望の方は、『左組通信』のそれぞれの回のページでお願いいたします。


※本稿は、ココログ版「レフティやすおのお茶でっせ」 より転載して、gooブログ「レフティやすおの新しい生活を始めよう!」 、および私の運営するブログ、アメブロ版「レフティやすおの作文工房」、ヤプログ版「「レフティやすおの本屋」店長日記」 に掲載しています。

私の七夕の願いごと

普段はこういうトラックバック・テーマに投稿はしないのだが、今回はジャンルを移動しようと考えているので、一度自分のブログの宣伝を兼ねてやってみよう。

近日中に従来のジャンル「日記・blog」から、「本・書評・文学」に移動する。
移動前に日記・blogのトラックバックステーションへの最初で最後のTBをやってみる。


= 七夕の願いごと =

私は、ホームページ『レフティやすおの左組通信』 ウェブログ『レフティやすおのお茶でっせ』 で左利きを考える活動をしている。


私の願いは、左利きであっても右利きの人と同じように快適な生活ができる世の中にしたい、という事。


左利きは○○だ、とか色々と言われて生きてきた。また生活の中でも、あれやこれやと不便に感じることがある。
生れたときから左利きだから特に不便だとか不自由だとか感じないという人もいる。
しかし、まったく何も感じないという人はいないはず。
少なくとも右利きだったら感じることのない何かを感じているはず。
もちろん人間ならなんらかの不満や不便さを感じながら生きているものだ。
しかし、単に利き手が違うというだけで実際に嫌な思いをすることがあるというのは、やはり、理不尽な面があると思う。


ユニバーサル・デザインという考えがある。
この中では左利きの人の問題も含めて考えているのだ。
人は皆、なんらかの障碍(障害の害の字はやはり不適当な"当て字"だと思う、常用漢字外だけれど気がついたときはこちらを使うようにしたい。)に出会ったり、問題を抱えて生きているものだ。だからこそ、少しでもその負担を減らせるように、と考えるのは、人の情だ。そういう人の気持ちを感じ取るのが、まごころという優しさ、思いやりというものだ。『論語』にいう「忠恕」の精神だ。そうだろう?


だから、左利きについても、もうすこし心を配ってもらえるようになれば、と考える。
私の子供時代と比べれば、大いに改善されてきてはいる。
しかし、まだまだ左利きに対する理解が不十分な人もいる。

早く、右利きであれ左利きであれ、利き手の違いによって不当な差別を受けることのない、左右共存社会になって欲しいものだ。

・‥…━━━☆キラッ


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コピーして貼り付けているのに…。どっかまちがってるのかなぁ。

ガッカリです。

いよいよ物を書く/我が物書き人生―その3―

私の「我が物書き人生」 もいよいよ佳境(?)に入る。


私が自分の意志で何か書くようになったのは、「その1」 で書いたように、最初は中学一年生のときのSF風物語とミステリ風物語、次が「その2」 で書いた中三のときの日誌風日記だった。

そして、三番目がいよいよ小説だ。これが高校三年生ぐらいのとき。


私は読んだり聞いたり知ったりしたことで感動するとすぐにそれを真似したくなる性質がある。自分では良い性質だと思っているが、人からはそれが欠点であると指摘されることもある。

まあ、長所と短所は同居する、裏表であるとも言うから、あまり気にすることはないのだろう、と思っている。


当時私は"海外文学"の早川書房から出ている『ミステリマガジン』という月刊誌を定期購読しており、たまには同社の『SFマガジン』も買っていた。

角川文庫や創元推理文庫のエンターテインメント中心の読書を楽しんでいた。
当時の好きな作家は、ジュール・ヴェルヌ、北杜夫、アガサ・クリスティーなどであった。


なぜそういう読書傾向になったのかというと、元々自分の中にあったハラハラ・ドキドキ・ワクワクといった冒険物語を好む性格が影響していたのだろう。
ただそれだけでなく、当時出ていた文庫本では、世界的な名著名作古典や近代文学などの類は、大なり小なり戦前や戦後まもなくの翻訳ものが多く、日本のものでも、大半は私には読みにくい旧かな使いや旧字(こちらが「正しい」と考える人もいるようだが、私は不勉強にして、その辺はよくわからない)のもので、漢字が苦手の私には手に負えなかったのだ。


当時の文庫本は、岩波は町の本屋ではあまり見かけず、主に置かれていたのは新潮と角川の二つ。他に、エンターテインメントの創元推理文庫がたまにある程度だった。
文庫というものは、基本的に古今東西の名著名作、古典と呼ばれるような優れた作品を金銭的に裕福でない学生にも手軽に手にとれるように安価に提供するものであった。今のように、本の版形の一形態といった感じの扱いではなかった。想定読者を限る出版の形態であった。
これが変わったのは、角川文庫における、映画とのタイアップによる『見てから読むか読んでから見るか』というキャッチフレーズによる、大量販売の手段としての文庫作戦以降であろう。


というわけで、私は自然と新訳の現代かな使い、当用漢字(当時、現在は常用漢字)のものを選んで読むことになった。
特に、本(文庫本)を買うときの基準としては、挿絵がついているもの、これがまず第一であった。
当時、角川文庫でも、創元推理文庫(推理といいながらも、SFも扱っていた)の影響かSF作品がポツポツと出始めていた。そういうものには多くジュニア向けのものが含まれており、当然のごとく挿絵がついていた。
角川文庫はどこでも置いていたので、そういうものを多く読むようになっていった。
その後、兄の影響もあって創元の推理小説を読むようになり、さらに怖いもの見たさが高じて、同文庫にあった『怪奇小説傑作集』を読み始め、その関係もあって『ミステリマガジン』へと読書を広げていったのだ。


*
さて、そんな読書経験から必然的に、自らもそういう作品を書くようになった。
最初に書いたのは、芥川龍之介が『今昔物語』に材を取って「羅生門」「鼻」「芋粥」などを書いたように、私は中国の『聊斎志異』に材を取って怪奇物を書いてみた
この本(角川文庫版)には、短い怪奇色の強い物語があって、楽しみに読んでいた。元はと言えば、ラジオでこの本を基にしたドラマ(あるいは朗読だったか)をやっていたのだ。それを聞いていて、ちょうど文庫本が出ていたので読むようになったのである。


他にも、いくつか短いお話を試作した。主に怪奇色の強いもので、私の好みの傾向のひとつである。(ホームページ『左組通信』 にも後年に書いた怪奇短編を収めている⇒「窓女(マドンナ)part3 -気まぐれな黒い魔女」
その後、もうすこし長めのものをと思い、書き始めたのが推理小説であった。

これなら、事件の発生から解決まで一応の流れがあるので、それに沿って描いてゆけば自然と長くなるだろうと考えたのである。


以下、次回―。

日記を書く/我が物書き人生―その2―

久しぶりに「我が物書き人生」を書いてみよう。


日記を書く/我が物書き人生―その2―

中学一年の三学期に初めてお話を二本書いた、と前回二月「我が物書き人生―その1―」に書いた。


次に物を書いたのは、中学三年の時の日記ではないか。
日記と書いたが、実際は生活日誌今日何をしたか、を少し詳しい目にメモしたもの、といったところだ。
今手帳にメモしているものと大差ない。
即ち、三十五、六年続けていることになる。
実際には途中何年かブランクがあったり、あるいは時に本格的な日記帳(と万年筆)を買って日記に挑んだ時期もあるのだが…。


これも学校の先生の影響である。
担任の先生が日記を付けてみようと指導されたのである。
一応書いては提出することになっていた。でもそれでは本当の日記ではない、と考え自分で別個に書き始めたのだ。
しかし、当時の私は、発育段階が低く、物思う思春期に達していなかったようで、特に人生を考えるようなレベルになく、単なる行動日誌に終わっていた。


見方を変えれば、直面している人生の問題があまりに大きすぎて当時の私は直視することができずにいた、とも言える。


その辺については、私の他のブログ「お茶でっせ」やホームページ「左組通信」を見てもらう方がいいだろう。
もちろん、そこに書かれていることがすべてではない。
私には大いなる秘密があるのだ…。 (?_?)